![]() 長崎新聞 | 核兵器禁止条約の追求を 平和市長会議の「核廃絶広島会議」 長崎新聞 会議I「NPT再検討会議の結果を踏まえた今後の活動のあり方」では、政府や非政府組織(NGO)の関係者からスピーチが相次いだ。 平和市長会議副会長の田上富久長崎市長は、核兵器禁止条約の追求が「私たちの次の知恵であり、次の行動」とし、同会議の新たなステップ ... 「焼津平和賞」の活動報告 核廃絶広島会議 7月29日(木) 7月28日(水) |
ひゅーまんフェスタ:平和の大切さ改めて実感して 軍服など展示−−あす伊賀 /三重 毎日新聞 今年は「平和の大切さを改めて実感してほしい」と、初めて戦時中の生活用品展示や、戦争体験者による講話がある。 フェスタは市や市教委などが主催し、今年で4回目。伊賀地域で福祉、環境問題などに取り組むNPO団体などが活動紹介のブースを出展するほか、軽食や手芸 ... |
国連事務次長 中国平和維持軍を称賛 中国国際放送 平和維持活動を担当する国連のアラン・ルロワ事務次長は29日、国連常駐中国代表団が行った解放軍建軍83週年祝賀レセプションに出席しました。 その際、ルロワ事務次長は「中国はスーダン、リベリア、コンゴ民主共和国、レバノンなどでの国連平和維持活動に工兵部隊、文民 ... |
建軍記念日控え工兵団公開 中国、国際協調アピール MSN産経ニュース 中国外務省と国防省は30日、人民解放軍の建軍記念日を8月1日に控え、国連平和維持活動や国内外の震災救援活動などに兵士を派遣している北京軍区工兵団の訓練や装備を北京駐在の外国メディアに公開した。 国防費の急増などで中国の軍事力に対する国際的な警戒感が ... |
![]() 西日本新聞 | 長崎平和特派員 第1号 読売新聞 長崎市は、国外で平和活動に取り組む人を「長崎平和特派員」に認定する制度を始めた。被爆地の思いを世界に広げるためで、第1号として、米・ニューヨーク市在住で「ニューヨーク平和映画祭」プロデューサーのタナカ有美さん(42)を選定し、24日、国立長崎原爆死没者 ... 長崎から、広島から:平和を案内する /長崎 長崎市が平和特派員認定 被爆地の願い、海外で発信 被爆の実相世界へ 「長崎平和特派員」第1号 NYで平和映画祭主催の田中さん |
モネータの思想は、彼自身もしばしば用いた「軍事平和主義者」などの逆説的な言葉によって表わされる。また彼は国内主義的な国際主義者であり、信心深い反聖職者で、オフィスの向かいに昼食を食べに行くのにも電車を利用する健康追求者だった。
モネータはミラノの貴族の家に生まれた。彼は15歳の頃におきたオーストリアに対する暴動に大きな影響を受けた。彼は父とともに家族を守る為に戦い、3人のオーストリアの兵士が近くで命を落とすのを目にした。彼の国家観の中に平和と闘争という二重の擁護が芽生えたのはもしかしたらこの時だったかもしれない。1848年から1866年にかけて、彼はイタリアの独立と統一への努力に多くの時間を費やした。1859年から1860年にはジュゼッペ・ガリバルディとともに戦い、後にシルトリの救助キャンプにも参加した。しかし彼は1866年のキャンペーンに幻滅し、将来の約束された軍事の経歴を捨て市民の生活に戻った。ただしシルトリでの活動には個人的に生涯に渡って関わり続けた。
モネータはハンサムで温かく、機嫌のよい男性で、乗馬、素人劇団での演劇などを趣味とした。彼は1866年にエドアルド・ソンツォーニョによって創刊されたIl Secolo紙の演劇の批評を書いた。その仕事を1967年に友人が引き継ぐと、彼は編集者として1895年まで勤めた。ジャーナリズムはモネータの活力と理想の良い捌け口となり、Il Secolo紙の編集者として彼の平和主義が育まれていった。
強い信条を持つ人物として、モネータの革新を受け入れる勇気、意欲、高潔さが尊敬を集めた。モネータはIl Secolo紙を編集のバランスを考慮せずに世論を形成する強力な道具に作り上げた。彼は宗教に敬意を払い、実際に敬虔なカトリック信者だったが、聖職者による虐待が長年の間イタリアの統一と社会の進歩を阻んでいたとの考えから、Il Secoloでは反聖職者の立場を採用した。彼の宗教に対する矛盾した態度が妻には許せなかったため、妻と二人の子供とは終生事実上別居の状態だった。
モネータが世界平和のために行った活動の幅の広さは印象的である。1890年に彼はL'Amico della paceと呼ばれる暦の編纂に取り組んだ。Il Secoloの編集者を引退しても彼はコラムの執筆は続け、パンフレットや雑誌の形で論文の出版も行った。やがて彼は平和活動へのプロパガンダの価値に気づき、論文の1ページをコピーして地方の校長に配布した。1898年、彼は隔週刊のレビュー紙La Vita internazionaleを創刊した。これは名声を得て長年の間刊行が続けられた。
モネータの平和活動は文字を通してだけではなかった。彼は1895年に国際平和ビューローの委員会のイタリア代表となった。彼は長年に渡り平和会議に出席した。彼は1887年の設立時からl'Unione lombarda per la pace e l'arbitrato internazionaleという組織を支援し、彼自身もいくつかの組織を創設した。中でもSocietà per la pace e la giustizia internazionaleは1887年から彼の死後の1937年まで続いた。また彼はイタリアの大学でも教鞭をとった。1906年、彼はミラノで行われた国際博覧会で平和のパビリオンを建設した。また開催期間中に行われた第15回国際平和会議では議長を務めた。
1900年から1918年に死去するまで、モネータは緑内障に苦しみ、ほとんど失明状態であった。しかし身体的な苦しみや年齢的な衰えがあってもモネータの熱意は衰えなかった。例えば第一次世界大戦中にもイタリアの戦争での役割を支持した。モネータは1918年に肺炎で亡くなった。1925年に友人らによって建てられた記念碑はファシスト政権時代は倉庫に隠され、第二次世界大戦での爆撃から守られた。この基盤に埋め込まれている銘板には、ガリバルディの戦友と平和の伝道者という、彼の矛盾した二つの面が描かれている。