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1929年ジョージア州アトランタ市のバプティスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。父マイケルと同じ名前を付けられたが、マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様としたため「マーティン・ルーサー・キング Jr.」となった。ちなみに宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が名前を取ってつけた名前である。
幼少の頃隣に白人の家族が住んでおり、同年の男の子2人と遊んでいたが、ある日彼らの母親が「(黒人であるキングとは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これがキングの人生初の差別体験である。また高校時代には討論大会で優勝したが、帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。
モアハウス大学を卒業後、ペンシルヴァニア州のクローザー神学校を経て父親と同じくバプティスト派の牧師となる。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。
ボストン大学に在学中、コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と知り合って結婚している(コレッタ・スコット・キングは4人の子供を育てキング牧師が亡くなった後も、夫の意思を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立、映画やTV、ヴィデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり、無暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は、2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり2006年1月31日に78歳でこの世を去った)。
また、ボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事に腹を立てて店員が注文を取りに来なかったが、そこが北部であったため、店員は人種差別として即逮捕となった。キングには南部で当たり前だったこの行為に、ひどく驚いたという。
1862年9月にエイブラハム・リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言により、アメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし、奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、その後も人種によって取り扱いを異なるものとすること、特に学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において白人と有色人種等の区別に基づき、異なる施設を用いることは容認されたままであった。この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「民主主義の橋頭堡」として参戦した第二次世界大戦後も続いており、むしろ法令上もかかる取り扱いを義務付けていたことすらあった。
1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプティスト派教会牧師も兼ねていたが、1955年12月モンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議して、モントゴメリー・バス・ボイコット運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり、運動中止命令かと思っていた所、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプティスト派教会の牧師をしながら、全米各地で公民権運動を指導した。
キング牧師の提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、また自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キング牧師のそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が『黒人は現状に満足している』と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。
事実その後のデモの中で、丸腰の黒人青年に警察犬をけしかけ襲わせている警官や、警棒で滅多打ちにする警官、高圧ホースで水をかける警官などの姿が映し出され、世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。
公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには、州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては、州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比れば人種差別の撤廃に肯定的であり、州政府ないしは州兵に対し、連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。
なおキング自身も、1963年4月12日にアラバマ州バーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。
この年に行われたワシントン大行進において、リンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)で始まる演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体と平易な言葉で訴え、広く共感を呼んだ。
当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるが、その内容は高く評価され、1960年に就任したジョン・F・ケネディ大統領の就任演説と並び、20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。
キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
なお、公民権法案を議会に提出したのはジョンソン大統領が副大統領であったジョン・F・ケネディ政権時代のことである。そのためケネディ大統領は黒人社会から絶大な支持を受け、一方で南部支配(白人の保守派)層からは敵意にも似た批判を浴びることになっていく。また、ケネディ大統領を継いだジョンソン大統領は、人種差別を嫌う自らの信条のもと、キングとともにこれを推進し公民権法の早期制定に持ち込んだ。
なお、公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由に、キングに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞は12月10日)。これは史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし、当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派はマルコムXを支持し、キングの非暴力的で融和的な方針に反発した。
上記のように、暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムXが1965年2月に暗殺されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにも関わらず、「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語っていた。しかし、その数年後、彼自身も暗殺されてしまう事になる。
一時期は公然とキング牧師の姿勢を批判し、演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には、自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・モスリムのネーション・オブ・イスラム教団と手を切っていた。
また、新たな思想運動のステップを登るべく、「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人社会学者ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キング牧師はそのためにマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。
ワシントンDCへの20万人デモで最高の盛り上がりを見せ、公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こしていき、キング牧師の非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。
黒人運動は暴力的なものになり、「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れたり(「ブラック・パワー運動」といわれる事もある)、ブラックパンサー党が結成されたり、そして1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きるに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。また、呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。
キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。
公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」と、ゴールだと位置づけた。
深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。
差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。
ベトナム戦争により黒人は多数徴用され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。
大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。
そして「ベトナム戦争反対」の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)」などで、さらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。
その後キング牧師は、泥沼化が進むベトナム戦争反対運動にも立ち上がったが、時代の中で「黒人社会」からも「白人社会」からも徐々に孤立していき、キング牧師を邪魔だと考える「敵」が増えていった。爆弾テロや刺殺(犯人は精神障害のある黒人女性)未遂もあったが、奇しくも命をとりとめている。
その様な状況下でも精力的に活動を続けていたものの、1968年4月4日に、遊説活動中のテネシー州メンフィスで”I'm over the Mountaintop”(私は山頂に達した)をメイソン・テンプルで遊説後、メンフィス市内のロレアンヌ・モーテルのバルコニーで、白人男性のジェームス・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。葬られた墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。
アメリカではキングの栄誉を称え、ロナルド・レーガン政権下の1983年より、キングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日が「マーティン・ルーサー・キング・デー (Martin Luther King Jr. Day)」として祝日になっている。なお、アメリカにおいて祝日となった故人は他にクリストファー・コロンブスとジョージ・ワシントンの2人である。
アメリカ国内において、アングロサクソン系を中心とした白人によるアフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカン、日系アメリカ人をはじめとする少数民族に対する人種差別は未だなくなっていないものの、運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを、平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、日本の中学校3年英語教科書の教材として使用されている。
「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、キングがメンフィスで語った言葉である。