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ヤーセル・アラファートという名前は通名であり、本名はムハンマド・アブドゥッラウフ・アル=クドゥワ・アル=フサイニー (???? ??? ?????? ?????? ???????) という。名前に含まれるフサイニーは、彼がエルサレムの名家フサイニー家の出自であったことを意味する。
通り名のヤーセルは、知り合いのパレスチナ人の名前を死亡時に受け継ぎ、自ら名乗ったものという。のちには、アブー・アンマル (??? ?????) という通称も帯びた。この通称が、いわゆる「ゲリラ名」として国際社会に知られているものである。
アラファートは、長らくパレスチナ解放運動においてイスラエルに対するゲリラの指導者として活躍し、幾度もの挫折を経ても復活したことから「不死鳥」と呼ばれた。しかし、後に穏健路線に転じ、1993年にはイスラエルとの歴史的な和平協定を果たしてパレスチナ暫定自治政府を建設する。これによって1994年にノーベル平和賞を受賞したが、イスラエル側で和平を主導していたイツハク・ラビンが暗殺されてからはイスラエルとの和平プロセスは停滞し、晩年にはイスラエル政府やパレスチナ内の和平に反対する運動との対立に苦しめられた。
エルサレムのアラブ系スンナ派ムスリム(イスラム教徒)の名門フサイニー家に属する裕福な織物商家の7人中5番目の子として生まれた。アラファート自身の主張によれば、彼は1929年8月4日、エルサレムに生まれたことになっているが、1929年8月24日にカイロに生まれたという見解もあり、彼の誕生日と誕生地は彼が生粋のパレスチナ人であったかという問題と絡んで議論の的となっている。
少年時代をカイロおよびエルサレムで送った後、カイロ大学で工学を学んだ。学生時代にはパレスチナ学生連合に所属し、1952年から1956年まで議長として活躍した。
1956年にスエズ危機が起こるとエジプト軍に入り、第二次中東戦争に工兵大尉として従軍。戦後はクウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となるファタハを結成。1963年にシリアに迎えられ、イスラエルに対する武装闘争に入ってファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させた。のちにファタハがパレスチナ解放機構 (PLO) に加入すると、アラファートは1969年にその議長に就任し、パレスチナ解放運動の指導者に立つ。
アラファート指導下のPLOは、パレスチナ難民が多く居住するヨルダンに拠点を作ってイスラエルに対する越境攻撃を行い、イスラエル軍の反撃を撃退して一挙にアラブ・パレスチナの英雄となる。しかし、勢力を拡大したPLOはヨルダンにおける「国家内国家」となってしまい、ヨルダン政府と利害を衝突させるようになった。
翌1970年、PLOによるテロがヨルダンを巻き込んで国際的に行われるようになると、このことがパレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れるフセイン1世国王の逆鱗に触れ、フセイン国王は9月14日に戒厳令を引いて国王親衛隊のベドウィン(アラブ遊牧民)部隊を投入、PLOを攻撃した(ブラック・セプテンバー事件)。
アラファートはこの事件によってヨルダンから追放されるものの、今度はレバノンの首都ベイルートに移って1970年代を通じてイスラエルに対する武装闘争を続けた。しかし、1982年のレバノン戦争(イスラエル軍のレバノン侵攻)の結果ベイルートを追放され、武装闘争の根拠地を失って政治生命を実質上絶たれた。
その後、イスラエルとの対話路線に転じて穏健派の指導者として復活を図り、1993年和平を成立させてイスラエルのイツハク・ラビン首相と会見した。翌1994年、和平協定に基づいてパレスチナ自治政府が設立されるとパレスチナに戻り、1996年1月の選挙でその長官(大統領)に選出された。
しかし、その後イスラエルとの和平プロセスはイツハク・ラビンの暗殺がきっかけで幾度となく危機を迎え、2000年9月28日にイスラエルのアリエル・シャロン(後の首相)がエルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏みこんだ事件をきっかけにハマースら非PLO系の組織を主流とするインティファーダ運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。アラファートはこの混沌とした情勢においてかつてのように強い指導力を発揮することができず、一方ではテロの制止に失敗してパレスチナ人の支持を失い、また一方ではイスラエル政府からの信頼を失っていった。
パレスチナ人武装勢力による対イスラエルテロが激化するとともにイスラエルはアラファートをテロ蔓延の原因とみなして敵視を強め、ヨルダン川西岸地区のラマッラー(ラマラ)にあるアラファートの議長府(大統領府)は2001年より長らくイスラエル軍による包囲・軟禁状態に置かれた。
軟禁状態に置かれ始めた頃から健康不安が囁かれていたアラファートは、2004年10月、体調の悪化を理由に治療のためフランスに移送され、11月11日午前3時30分にパリ郊外のペルシー仏軍病院で死去した。アラファートは生前に遺体を東エルサレムまたはその近郊に埋葬してほしいと希望していたが、東エルサレムを自国の不可分の領土としているイスラエル政府はこれを拒否したため、遺体はカイロに運ばれて国葬された後、11月12日にラマッラーにある議長府敷地内に埋葬された。